TIME LINE ロダンの年表 ロダンの人生と彫刻作品を体系的に紹介します。

Photo portrait of Auguste Rodin by Félix Nadar. 1893

彫刻作品制作

ロダンの生涯

1840

11月11日、オーギュスト・ロダン、パリに生まれる。

1855

プティ・エコール(帝国索描・算数専門学校)に入学し、基礎的な美術教育を受ける(-1857)。この問に、彫刻家を志すようになる。

1857 - 1859

国立美術学校を3年続けて受験するが、いずれも失敗し、以後入学を諦める。

1862

最大の理解者である姉マリア(1838-)の死去により絶望したロダンは、聖体礼拝会に入り、修練士となる(-1863)。ここで、ピエール=ジュリアン・エイマール神父(1811-1868)に出会い、彫刻家の道に戻るよう諭される。

1863

(※原型)制作

1863

ルブリュン街に最初のアトリエを設ける。

1864

当時人気を博していた彫刻家アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズのもとで塑像エとして慟く(-1872)。
後に妻となるローズ・ブーレと出会う。
《鼻のつぶれた男》をサロン展に応募するが落選する。

1865

1866

1月18日、ロダンとローズとの問に息子オーギュスト・ブーレ (-1934)が生まれる。

1870

(※1870年頃)制作

1870

普仏戦争の際、国防軍158連隊に伍長として入隊する。

1871

ブリュッセルに赴く(1877年まで滞在)。同地でカリエ=ベルーズのもとで慟く。

1875

5月-6月、初めてパリのサロン展に出品する。
《M.B.の肖像(現在の《鼻のつぶれた男)》《ガルニエ》
この年の末、初めてのイタリア旅行で、ミケランジェロ、ドナテッロなどの作品を熱心に研究する(-1876年3月)。

1877

(※原型)制作

1877

1月、ブリュッセルの「芸術・文学サークル」展に無題で《青銅時代》を出品するが、人体から直接型取りをしたとの批判を受ける。5月には同作品をバリのサロン展に応募するが、同様の批判を受ける。

1879

制作

(※1906-18年の間に拡大) 制作

1879

セーヴル磁器製作所の工場長となったカリエ=ベルーズのもとで、装飾の仕事をする(-1882)。

1880

(※1880年代前半)制作

(※1880年代)制作

(※1880-90年頃/1917年 原型)制作

(※1880年 原型)制作

1880

政府の美術局より建設予定の装飾美術館に設置する作品として、《地獄の門》の注文を受ける。このときの装飾美術館建設計画は結局実現せず、《地獄の門》が設置されることはなかった。

1881

(※1881-82年頃)制作

(※1881-84年)制作

(※1881年 原型)制作

(※1881-82年)制作

(※1881-82年頃 原型)制作

1882

(※1882-87年頃 原型 )制作

(※1882年頃 1906-08年頃に拡大)制作

1883

作品のモデルや助手を務め、後に恋人となるカミーユ・クローデルと出会う。

1884

(※1884-88年 原型)制作

(※1897年に拡大)制作

1884

カレー市が設置を予定している記念碑《カレーの市民》のための第1試作を市に提出し、翌年には正式にカレー市より記念碑制作を受注する。

1885

(※1885-87年 原型)制作

(※1885年頃 原型)制作

1887

(※1887年以前)制作

1887

レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を受ける。

1889

サロン展の再編成がなされ、「フランス芸術家協会」から分離して、「国民美術協会」が結成される。代表はメッソニェ。
ロダンはその結成メンパーに名を連ねる。
パンテオン(パリ)に設置するための《ヴィクトル・ユゴー記念碑》の注文を受ける。しかし、翌年、この注文は破棄される。

5月-11月、パリ万国博覧会で開催された「現代美術展1878-1889」に《カレーの市民》(「ジャン・デール」のみか?)《ヴィクトル・ユゴー》《膏銅時代》など6点を出品する。同じく「フランス美術の100年展1789-1889」に《鼻のつぶれた男》出品。また、「特別展:パリ市によるこの10年間の購入作品」に《ヴィクトル・ユゴー》を出品。

6月-8月、ジョルジュ・プティ画廊(パリ)でロダンとモネの2人展が開催される。ロダンは36点出品。《カレーの市民》《ダナイード》《詩人一考える人》(現在の《考える人》)など。モネは145点を出品。

1890

(※1890年以前)制作

(※1890年頃)制作

(※1890年頃)制作

(※1890年頃)制作

(※1890年以前)制作

1890

5月-6月、国民美術協会の初めてのサロン展が開催され、《地獄の門》のための習作など6点を出品する。

1891

文芸家協会より《バルザック》記念像の注文を受ける。

1892

レジオン・ドヌール勲章オフィシエ章を受ける。

1893

国民美術協会の副会長および彫刻部長に就任する。パリ郊外ムードンのヴィラ・デ・ブリヤンに別邸を構える。

1895

制作

1895

《カレーの市民》がカレー市リシュリュー広場に設置される。

1896

(※1896年以前)制作

1896

1月-2月、ビングの経営する店「アール・ヌーヴォー」(パリ)に、《皿の上の聖ヨハネの首》など3点を展示する。

1897

(※1897年 原型)制作

1898

(※1898年頃)制作

1898

カミーユ・クローデルとの関係に終止符を打つ。

1900

(※1900年以前)制作

(※1900年以後)制作

1900

パリ万国博覧会が開催され、同時開催された「フランス美100年展」に《青銅時代》《アダム》《ヴィクトル・ユゴー》など8点を出品。「フランス美術10年展」には《接吻》《若い女性の胸像》を出品。
6月、アルマ広場の特設会場でロダン回顧展が開催され、約170点が展示される。《地獄の門》《カレーの市民》《エヴァ》、《ヴィクトル・ユゴー》《バルザック》など。本展のカタログには、カリエール、モネ、ジャン=ポール・ローランス、ポール=アルベール・ベナール(1849-1934)が文章を寄せている。

1901

アルマ広場の展覧会で使用した建物をムードンに移設する。

1902

9月、詩人ライナー・マリア・リルケと出会い、交流が始まる。
写真家のエドワード・スタイケンがロダンやその作品をムードンで撮影する。

1903

(※1903年頃?)制作

1903

5月、レジオン・ドヌール勲章コマンドゥール章を受ける。

1904

《考える人》[拡大作]を募金により購入し、パリ市に寄贈する計画がもち上がる。後援会の名誉代表にアルベール・ベナールとカリエールがなり、会計担当はジェフロワが行った。

1905

1905

9月、リルケがロダンの秘書を務める(-1906)。

1906

(※1906年?)制作

1906

4月21日、募金の結果、パンテオン(パリ)の入口に、《考える人》が設置され、公開される(-1922)。

1907

(※1907年 原型)制作

(※1907年頃)制作

(※1907年頃)制作

1908

(※1908年 原型)制作

1908

リルケの仲介により、パリ7区のヴァレンヌ街にオテル・ビロン(現在のロダン美術館)を購入する。

1910

レジオン・ドヌール勲章グラン・オフィシエ章を受ける。

1916

9月-12月、国会で、ロダンの作品などの国家寄贈の受け入れと、オテル・ビロンにロダン美術館を開設することが決定される。

1917

1月29日、ローズ・ブーレと正式に結婚する。
2月14日、ローズ死去。
11月17日、ロダン死去。

1918

松方幸次郎がレオンス・ベネディットと接し、ロダン美術館にロダン作品の購入を打診する。

1919

8月4日、ロダン美術館が一般に公開される。