BALZAC (STUDY) バルザック(習作)
本作は1891年に文芸家協会(当時の会長はエミール・ゾラ)から記念碑として発注され、制作が進められました。バルザック(1799-1850)の特徴を把握するために、生まれ故郷のトゥールでこの地方の人の特徴をつかもうとするなど、ロダンにとっては偉大な文豪と正面から取り組む機会となったが、習作の段階から文芸家協会との軋轢が続きました。協会側には、ロダンが提示した本人とは似ていない尊大な顔つきや腹の突き出た醜悪な姿を、習作段階からすでに受け入れることができなかったのです。ロダンの意図はバルザックの姿を写実的に彫刻するよりも、芸術に向かう精力的な姿勢や自信を、無駄のない本質的な形で表現することにあったのです。
完成作品は、1898年のサロン展に、バルザックが生前部屋着として愛用していた修道士のガウンを身にまとった、高さ3メートル近い石膏像として出品されました。そしてその結果、文芸家協会は本作の受け入れ拒否を正式決定しました。
この決定にたいしてロダンの周囲の彫刻家、画家、批評家たちは反発を示し、本作をめぐっては論戦が展開されました。強力な支持者のなかには当時ロダンのアトリエで職人として働いていたブールデルも含まれています。彼らは《バルザック》のバランスのとれたフォルム、頭部と身体のコントラストを称賛し、彫刻の未来を予告するものとして高い評価を与えました。逆に批判者たちは不格好なフォルムを溶けた塩の塊やずた袋、融けて垂れ下がった蠟燭になぞらえ中傷しました。さらにロダンを疲弊させたのは、《バルザック》の支持/不支持がドレフュス事件の支持者/不支持者に重ね合わされ、政治的に利用された点でした。芸術論争を超えた議論に終止符を打ち、本作を石膏像のままアトリエに戻したのはロダン自身であり、以後、何度もブロンズ鋳造の依頼があったにもかかわらず、亡くなるまで本作を石膏原型のままアトリエに保管することとしました。
《バルザック》ではグロテスクとも批判された誇張された頭部にたいして、弓なりに反った体、袖を通さず肩から掛けられた部屋着が簡潔な形を強調します。面的につくりだされる陰影の美しさは、エドワード・スタイケン(1879-1973)がロダンの求めに応じて、月光の下で撮影した写真によく表れています。スタイケンによると、この写真に感激したロダンは写真家の肩を抱いて「あなたの写真は世界にわたしの《バルザック》を理解させることでしょう」と言ったといいます1)。
《バルザック》には頭部や身体、部屋着などの部分習作、全体構成の習作が数多くあり、ロダン美術館は残された習作を時系列で並べ、その制作過程を明らかにしました。それによると国立西洋美術館所蔵の《バルザック》は、部屋着の裏地が一部見えているところが最終作品とは異なっているため、完成作のふたつ前の習作とされています。
1)Hélène Pinet, "Il est Là, Toujours, Comme un Fantôme," 1898: le Balzac de Rodin, exh. cat., Paris: Musée Rodin, 1998, p.200.
(大屋美那監修/編集『手の痕跡 : 国立西洋美術館所蔵作品を中心としたロダンとブールデルの彫刻と素描』 展覧会図録、東京:国立西洋美術館、2012年)
制作年
1897年(原型)、1961年(鋳造)
材質・技法・形状
ブロンズ
寸法(cm)
106 x 45 x 38
署名・年記
台座上面右に署名: A. Rodin; 台座右側面に書込み: by musée. Rodin. 1961; 台座背面に鋳造銘: George Rudier. / Fondeur. Paris.
所蔵経緯
松方コレクション
分類
彫刻
所蔵番号
S.1962-0001
来歴
朝日新聞社より寄贈
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